Derek Hynd(デレク・ハインド)

Derek Hynd(デレク・ハインド)

オーストラリアニュー サウスウェールズ州ニューポート出身の明るく一風変わったプロサーファー兼サーフジャーナリスト。1981年に世界ランク7位入賞。80年代初頭から2010年代初頭にかけて、サーフィンメディアに多数の記事やコラムを寄稿しています。

ハインドは1957年に生まれシドニー郊外で幼少期を過ごしたのち、1966年に家族とともにニューポートへ移り住みました。1968年にサーフィンを始め、1978年にシドニー大学経済学部を卒業した翌年にはワールドツアー入りし、ツアーランク32位入賞。翌年1980年には12位までジャンプアップさせました。痩せ型の体で非常に柔らかい関節のひじを持ち、サーフィン中に派手な動きや360度回転を交える独自のスタイルを確立しました。1980年には大会中に誤ってサーフボードで顔面を強打し、右目を失明しました。にもかかわらず、翌年1981年にはツアーランク7位に入賞し、人々を驚かせました。しかし翌年には20位に下落し、25歳で大会から引退しました。

ハインドは1978年にサーフィン雑誌「Surfing World」への寄稿を始め、1983年には「Tracks」、翌年には「Surfer」への寄稿も始めました。彼の文体は、高い洞察力、ウイットに富む知見に曖昧、下品、ネガティブな表現が織り交ぜられたものでした。人物紹介や紀行文も執筆しましたが、最もよく知られているのはワールドツアーレポート、中でも「Surfer」誌で毎年おこなわれていたトップクラスのサーファーの特集記事です。1987年に開始された「ニューASPトップ301992年にトップ44に変更)」というこの記事では、各選手の過去3年間の順位や前シーズンのパフォーマンスについての批評等が掲載されました。ハインドは15位のフロリダ出身のチャーリー・クーン選手について、「彼には何が何でも勝つんだというクソでかい野望がなく、はっきりとした目標が見えない。人当たりがよく誰が見てもいいヤツだが、目標達成のためには必要な腹黒さや嫉妬心、エゴといったハングリー精神の感情が足りない。」という辛口コメントを残しています。また、彼は各選手の今後のワールドタイトル獲得の可能性についての予測の一言コメントも残しており、通常は「可能性なし」で、たまに「わずかに可能性あり」や「可能性あり」と予測しましたが、「確実に獲得できる」という予測はめったにしませんでした。彼の予測はたいてい的中しましたが外れることもあり、1988年の暮れに、「可能性なし」と予測した南アフリカ出身のマーティン・ポッター選手は、翌年1989年の大会で予想に反して見事優勝しました。

Derek Hynd. NO Fins and NO legrope. Legend.

ハインドは1984年から1988年までプロサーフィンコーチとしても活動しました。指導した中でもとりわけ有名な選手に、パワーサーファーで後に世界チャンピオンとなるマーク・オクルーポが挙げられます。1992年にはリップカールウエットスーツの長期マーケティングキャンペーン「The Search」を立ち上げ、エキゾチックなサーフィンロケーションに焦点を当て、引退した元世界チャンピオンのサーファー、トム・カレンをイメージキャラクターに起用しました。1999年にはサーフィン映画「Pro Land」を制作し、2001年にはスコットランドのルイス島で「Hebridean Surf Festival」を開催し、トム・カレンやスキップ・フライなどのサーファーも参加しました。常にサーフボード機材の改良に取り組んだハインドは、第2世代のフィッシュボードを最初に乗りこなしたサーファーの一人であり(それは後のスポーツのレトロブームの先駆けとなりました)、2000年代後半にはフィンレスの、彼の言葉を借りて言えば「フリー・フリクション」のサーフボードの立役者となりました。 

ハインドは「Sultans of Speed(1987)」、「Litmus(1997)」、「Glass Love(2003)」などのサーフィン関連の映画や番組で取り上げられました。また、クラシック音楽とフィンレスサーフィンを融合させたドキュメンタリー映画「Musica Surfica」に主演し、2008年にはニューヨークサーフフィルムフェスティバルで最優秀映画賞を受賞しました。

 

エンサイクロピーディア・オブ・サーフィング から翻訳